**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   265号 2011.2/5

 前号の、グループで「ダーチャ」を作るという話に関心をいただきありがとうございます。せっかくの機会ですから、もう少し深い部分に入ってみます。

○左脳社会から降りる道を作る時

 海で泳いでいるなら海のうねり(リズム)に合わせ、馬上にいるなら馬の足並(リズム)に合わせるのが、安定であり安全です。
 私たちが自然の中にいる以上、自然のリズム(左脳判断ではファジーなリズム)に合わせるのが安定であり安全です。
 ところが、私たちの作り出した文明は、農業も工業も、また社会システムも機械的なリズムを前提にしています。自我意識(左脳)は、機械的なリズムしか理解できないからです。このために、自我意識の作り出すものは自然と敵対します。
 自然のファジーなリズムで巨大なエネルギーが動くとき(台風、地震、洪水・・・)、自我の産物は大きなダメージを受けます

 今の自我文明は、いつの間にか限度を超えてしまい、今や根本から組み直しするしかない状況になっています。私たち日本人の生活でいえば、数十年前に一線を越えてしまったといえます。その辺りから自然に沿える部分が全く無くなり、元に戻れないので自然から離反しつづけているという状態です。リスクがどんどん大きくなっています。

 私が子供の頃(1960年頃)なら、一週間停電しても生活がストップすることはなかったでしょう。電気製品といえば白熱球とラジオぐらいしか無かったですから。今の生活で一週間も停電すればそこに居ることも出来なくなります。それが水道であろうと、ガスであろうと同じです。

 また今の生活は、お金無しでは続けられない生活になっていますから、収入(仕事)を失うと一気に崩壊し、ホームレスの生活に陥ります。
 今後は、年金生活に入った時もホームレス化する可能性が大きくなりました(09年データで、年金支払者は6800万人、年金受給者は6000万人です。国民年金と厚生年金の両方を受けている人のダブルカウントはありますが、制度が成り立たないような数字になっています)。

 そのようなリスクをかかえた生活になっているのに、大半の人は身をかわす別の生活システムは持っていません。ヘッジとしての生活システムは、自然の要素(自然法則と自然素材)のみで組み立てられたシステムなのですが、今の暮らしの中に自然のシステムを差し込むことは不可能になっています。
 日本の住居様式は、電気炊飯器を使うようになってから、一変し(土間がなくなった)、二度と自然の要素(マキを燃料にしたり、井戸水を使うような生活)は組み込めなくなりました。

 今の生活の危うさに気づいた方、左脳の作り出した生活システムに精神的に耐えられなくなった方・・・は、ロシアの「ダーチャ」のような考え方で、今の生活をは別の場所に自然の要素のみで生活システムを組み立てておくべきです。もう待った無しの時期に来ています。
 それをベースキャンプと考えれば、今の生活の中に安全を組み込んだことになります。またそれが、左脳世界から降りる一歩でもあります。
 この考え方で、最もローコストな対処方法は、自然の生活システムが組み立てられるスペースとノウハウ(知識、技術)だけを持っておくという方法です。スペースは共同で買えばよいです。
 スペースさえあれば、何があろうとホームレスのように不法占拠で追い立てられることはないし、ノウハウさえあればその時になってからでも何とかなります。

○自然のスペースを今使う時の考え方

 手にしたスペースを、今生活の場にするとか、「ダーチャ」のようにセカンドハウス的に使うとか・・・の場合、まず自然の要素(自然法則と自然素材)のみで生活システムを組み立て、その上に必要に応じて文明(左脳)の道具を乗せて行きます。
 例えば、まずカマドを作り、それに電気炊飯器を加えるとか、井戸水、沢水を確保してから水道を引くとか、マキ風呂を作り、それに灯油ボイラーを組み込むとか・・・の組み立て方をします。これが安全と便利さを両立させる方法です。右左脳を統合させた考え方です。

 実は、1960年代の田舎の生活はそのようなシステム構成になっていました。それまでの自然の要素のみで組み立てた生活の中に、一品づつ文明の道具が入って来たために自然にシステムの重層が行われたのです。井戸に手押しポンプを付けたまま水道を使っているとか、カマドの上に板を敷いて電気炊飯器を置いているとか・・・の暮らしをずっと見てきました。
 家の建て替えがされていないところでは、今でもそのようなシステムが残っていて、そのような空間で子供がiPadを使っているのかもしれません。三重くらいのシステムが同居していることになります。

 自然の要素のみで生活システムが組み立てられないなら、スペースのまま温存させておくべきです。ノウハウの蓄積が先です。
 ノウハウのないままにそこで生活しようとすると、いきおい文明の道具を持ち込むことになり、田舎に都市の生活(左脳の生活)を作ることになります。これは都市以上にお金のかかる生活になり、リスクは都市の何倍にもなります。

 夜の台風などで停電すると、田舎では明るくなるまで復旧しないことが多々あります。電線が山林を通過していることが多く、その部分が断線すると夜が明けるまで手が付けられません。真夏だと冷蔵庫の食材は皆アウトです。
 灯油にしても、今「給油難民」という言葉が生まれているように、法改正もあってガソリンスタンドが次々に閉店しています。ガソリンスタンドが全く無い自治体も生まれています。
 又、器具や設備の修理にしても、すぐに業者の来てくれるところではないですから、都市の考え方で生活を組み立てると命取りになりますし、せっかくのスペースがいざという時全く役に立たないことになります。

○右脳的な視点が必要

 自我(表面意識、左脳)は、常に何かしなければならないと思っています。これは集合意識(潜在意識、右脳)から分離した意識が感じる欠落感から生じるものと言われています。そして自然に手を加えるわけですが、何かするほど自然から離れた世界を作り出し、危険を高めて行きます。そして、自然のもつポテンシャルを下げて行くことにもなります。

 インディオの自立を守る活動家、アユトン・クレナックは「何でも与えてくれる森を農業と交換するつもりはない(森を伐採して畑にするつもりはない)」と言い切っています(『鳥のように川のように』)。
 インディオの長い歴史の中で、農耕が頼れるものではないこと、ノウハウさえあれば畑より森の方が多くを与えてくれることを知っているのです。

 私たちの知識で考えても、森を畑にすると得られる品種は狭められます(特定の品種の量は増えますが)。その畑を放置するようなことにすれば、草むらになるだけでもう何も得られないスペースになります。
 森のままなら放置していてもキノコや野草が得られ、木はいつでも材料や燃料になります。その森に少し手を加えるなら、放置したままで食料生産もできます。食用ドングリ、栗、柿、梅などを植えておけば、これらの木々は人手を入れなくても毎年実を付けてくれます。必要がない時は自然落下させておけばよいのです(畑地帯に樹木を植えることは隣地に日影を作るので許されません)。

 自然の活用は、必ずしも左脳的な判断で何かをすることではありません。右脳的な理解で人手をかけず安定度の高い収穫を得ることもできます。この両方の兼合いが必要です。ローコストな生活も、右脳的な理解の中にあるのですが、この話は機会を改めます。

 
**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  265号 2011. 2/5