**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   260号 2010.9/5

 今号から何回かに分けて、今日の私たちが抱えている根源的な問題とその解決方法を提案したいと思っています。今回はその前置きです。

○人生の定型から外れた人の結末

 最近、高齢者の所在不明問題と年金の不正受給が新聞の三面記事をにぎわしていますが、この事件について私は同情的な目で見ています。
 一つ取り上げますが(10年8月22日の新聞記事)、104歳の白骨遺体が東京大田区のアパートのリュックサックの中から見つかった事件です。

 警察の調べでは、死亡した母親はリウマチで寝たきりの状態で、長男1人が介護しており、長男の介護記録によると01年6月21日に文京区の自宅で死亡したらしく(当時長男は54歳、無職)、放置の理由を尋ねたら「葬式代がなかったので・・・」と答えたと。
 その後3年間、親の年金120万円を不正受給した疑いがあり捜査中とあります。長男は04年から大田区のアパートを借りており、そこには父親の位牌と母親の写真が飾られていたということです。
 
 介護体験のある私には胸の痛くなるような事件で、その間の状況も手に取るように解ります。この事件の結末は母親がリウマチで歩けなくなった時点で(90年代か、長男は50歳前後でしょう)、確定していたとも言えます。それ以外の終わり方はなかったでしょう。
 独り介護だと、まず仕事が出来なくなります。そして収入がなくなり親の年金収入だけになります。葬式代が無かったというのも事実でしょう。親が葬式代を用意してくれていなければ、介護生活の中ではとても作りだせません。
 そもそも自宅で死亡したとき、その後どのような手続きをしていったらよいのか知らない人の方が多いでしょう(警察に連絡し検死を受けることから始まります)。しかも、葬式代がないというのですから、下手に動くことが出来なくなります。そうこうしている内に数日が経ってしまったら、もう黙っておくしかないでしょう。当然考えられる結末であることです。

 高齢者の所在不明事件の一方に、母親のネグレクト(育児放棄)事件もありますが、根っこにある原因は同じものです。それは、「個の生活自立」を当然とする社会通念です。
 それぞれ生活自立するのは当り前のことだと思っているでしょうが、このような社会通念が生まれたのはたかだか50年前、経済の高度成長があってからのことです。それ以前の日本には「個の生活自立」などという概念はありませんでした。
 農業や商工業は、家族や親族の集団で行うものであり、「集団での生活自立」でした。そういう自覚も言葉もなかったでしょうが、その時代には今日三面記事をにぎわしているような事件は全くありませんでした。

 今日の社会問題の大半は、「個の生活自立」が当然となり社会通念化したことから発生しています。
 母親が子供を育てるのは当然のこととする社会通念が出来上がり、皆がそのように育てていると、私には出来ませんというSOSも発信できなくなります。私は落ちこぼれです、というのに等しいことですから・・・。

 自宅死亡の未処理もそのような一面が関係していると思います。田舎で若くして未亡人になった人の例ですが、葬式の方法がわからなくて自殺したという話しを聞いたことがあります。個の自立が当然のこととなってしまうと、このような事にもなります。

○人生の定型を外れると助かる方法がない

 「個の生活自立」が社会通念化した背景には、国家の制度がそれを前提に作られていることがあります。戦後の『日本国憲法』には「家族」という言葉がなくなり、総べて「個」が単位となってしまいました。そのためすべての制度は「個」が単位であり前提となっています。

 その「個」は学校を卒業したら安定した勤労仕事につき、結婚し家を持ち、子供を育て、定年を迎えたら退職金を受け取り年金生活に入るもの、といったように想定されています。それが50年前に作られた人生の定型であり、各種制度もそのライン上にあります。定型の中を歩んでいる人は制度上の支援も厚いのですが、それを外れてしまうと何も無くなってしまいます。

 例えば人生半ばにして親の介護が始まるという人生は、想定されていないですから、そこで定型から外れてしまうと先のような事件になります、。
 年金の加入期間が十分にないとか、生涯未婚者とか、自宅がないとか、子供がいないとか・・・は、定型外の人生ですから、国の制度の中で救われることはないでしょう。なので自分で独自の人生設計をする必要があります。
 大半の人は定型から外れているのですが、仕事があり、健康な間は、自分が外れていることも気付かないでいます。
 このような問題と解決策を次回から考えていきたいと思います。


**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  260号 2010. 9/5