**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   246号 2009.8/25

 巷では、大地震が起こるとか、選挙はどっちが勝か、とかいろいろ騒がしいようなので、メルマガも変則発行とします。

 メルマガ244号で、最低基準の「衣食住」を書いておきましたが、今回は、戦後の開拓村の記録を紹介します。
 これは、1号村の土地を探す際、資料として利用させてもらった『岡山県戦後開拓史』の中の手記の部分の抜粋です。この本は当初、図書館で借りて必要な所をコピーして使っていたのですが、その後、妻の実家に2冊もあったことが解り、今1冊は私の手元にあります。
 戦後開拓は国策として行ったものであり、本の編纂も国の指示でしょうから、たいがいの県で『○○県戦後開拓史』という本が作られていると思います。興味のある方は図書館に問い合わせてみるとよいでしょう。その地域での開拓者の暮らし方がわかります。
 今回取り上げたのは岡山県の北部(中国山地)の開拓に入られた方の手記です。長い話なので衣食住の部分だけを抜き書きしてみました。

 
「衣」

「敗戦後の物資不足で、何を買うにも1人1年間に何点と、政府の決めた衣料切符制、配給制度時代でした。闇売買の盛んだったのもこの頃でした。経済的にも恵まれない私達は、まったく着たきりスズメでした。まして子供には悲しい思いをさせたと悔んでいます。
 幸い私は、はたち代の若者だったので春の彼岸から秋口までは裸で農作業したこともしばしばありました。」

<仁慶コメント>
 冒頭の「敗戦後」という言葉を「首都圏被災後」と置き換えて読むとリアリティーがあります。万一の事があれば似たような事になると思います。メルマガ245号で、避難地の条件の一つとして「雪の積らない所」と言っておきましたが、物資がなくなると暖かい所が楽です。開拓村のように、隣りが気にならないような所だと夏なら裸で過ごすこともできます。
 今でも田舎には、夏そういうスタイルで過ごす老人がいます。これは洗濯という雑用を少なくする目的もあるのだと思います。私は、井戸からバケツで水を運んでいた時代の体験者ですが、水に苦労するようになると、洗濯ごときのために水は使えなくなります。

 

「食」

「昭和25年長女、28年次女、32年次男が生まれ家族も増えた。食生活も、いっそう困難になり、稲が少し色着けば人様から笑われましたが一斗分とか、二斗分とか、刈っては食べ、刈っては食べ、俗に世間でいう青刈りで、人様が稲刈りをされる頃には、吾が田の稲は半分しか残っていない、翌年また困るといった具合でした。・・・開墾補助金のあった頃は、組合に泣き付いて助けていただきましたが、それも限度のある事、内緒で土地の一部を手放す者、牛を売って食う人、農機具を売って食う者、損を承知で物々交換をした事もありました。」

<仁慶コメント>
 私は、そこに書かれている子供の世代であって、やはりまともな物は食べていないと思います。その頃から食には関心がなかったのか、食の記憶はほとんどありません。冬は雑炊を食べていたような記憶、夏はお茶漬とウドンを食べていたような記憶が出てきました。腐ったご飯をザルで洗って、ヌメリを取ってお茶漬で食べたことがあります。ご飯は腐っても食べられると言っていたような事を思い出しました。
 飢えの記憶がないので、とにかく何か食べていたのでしょう。苦しみの記憶はありません。子供はそんなものです。

 

「住」

「吾が居城を紹介します。坪数12坪、一部の土台に(たぶん北側でしょう)桧使用の他はすべて松材です。地区内にあった木を切り、移動製材機で挽いたものです。高さ10尺(3m)、屋根はコワ葺き(カヤ葺?)と杉皮葺きで、8畳4畳の二部屋と4畳の土間でありまして、お客様でもあって、今日ワといって一歩内へ入れば家の中は一目で、隅から隅まで見通せるような家です。台風の度毎に、雨戸が吹き飛ばされぬように内と外から棒を使って縛り付けたり、四方から突張りをしました。・・・こんな吾が家も2万5千円の住宅資金と1万1千円の住宅補助金で、昭和24年10月24日棟上げをし、親元から祝ってもらった紅白の餅まきも、ささやかに済ませました。たとえ小さくとも、柱は曲がっていても、粉雪は舞込んでも私には安住の御殿です。」

<仁慶コメント>
 開拓村の住居は、たいがい開墾のために伐採した木を製材として使っています。
上等な木はないですから太鼓挽き(断面が太鼓の形)で、厚みを一定にしただけの材を使っています。大工さんに骨組みをしてもらうだけで、壁などは夫婦で塗ったという話が多いです。床はムシロ敷きで、開口部もしばらくはムシロを下げていたという手記もありました。

 戦後開拓といえば、もう歴史の一駒のように思われるでしょうが、この手記を書いた方はまだ御存命かもしれません。1号村のある地区でも初代の方がまだおられます。
 先のような暮らしは、これからの私たちの暮らしになるかもしれません。日月系の神示で伝えられているような天変地異が近々首都圏で起きるとすれば、その瞬間から何百万人という人が戦後開拓以下の生活に入るでしょう。何万人規模ならともかく、何百万人となると対応技術がありません。
 アメリカでは、経済問題からすでに戦後開拓以下の生活に入っている人がいるようですし、ヨーロッパでもそういう人たちがかなりいるようです。

 これらは、次の時代に渡って行くためのプロセスと考えるべきです。今の概念、信念体系を持ったままで、平和で豊かな暮らしが実現できる場所はもうありません。私たちは、この現実が壊れないと概念や信念体系を変えることが出来ないのです。不幸に出会ったら、次の時代に行くための研修を受けていると思うと少しは楽になるでしょう。ハードな体験はしたくないというのであれば、今から概念を組み替え、現実を変更して下さい。まだ多少ソフトなルートが通れる可能性があります。

・・・・内輪話ですみません。
8月の静岡での地震は東名高速が壊れた話ばかりが報道されていましたが、実際の被害はどうだったのでしょうか。静岡はずっと東海地震が起こる、と言われていた所なので行政から個人レベルまでも地震に対する対策がなされていた、と聞きました。なので日常生活には大きな支障はなかったのでしょう。同時期にあった台風被害も大きく報道されましたが、これは日頃からの防災対策がなされていない地域に甚大な被害が起こったように思います。といっても、自然の前には人間は成す術もありません。いつ起こっても不思議ではない自然災害に日頃から対策をたて準備しておけば、備え有れば憂いなし、なのでしょう。それにしても、もう何年も前から地震だの災害が起こる、起こる、と言われながらまだ平穏な生活をしていますが、私など「もう成るようになるだけ」と緊張の糸が切れています。


**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  246号 2009. 8/25