**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   202号 2006.5/5

 前号で共同の暮らしで問題となる自我の性質について考えてみました。自我というのは、魂の方向性、生まれ育った環境等から作られて行く、固有の認識データであって、固有の視点だと言えます。固有の視点があるから独自の世界が見えるのであって、それは個人にとっては一つの学びだと思います。
 しかし、固有の視点、固有の認識から他人をコントロールするのは問題です。共同の暮らしにおいて問題になるのはこの部分です。その人はそれまでの人生体験から善かれと思う事を言っているのですが、聞く人は全く別の世界にいるのですから、要らぬお世話になってしまいます。

○新しい共通の視点を作る

 共同の暮らしにおいて、メンバーそれぞれの認識データが違うことから生じるトラブルを防ぐためには、関係者全員が新しい共通の視点を作り出せばよいのです。それまでの自我の視点も、育っていく中で形成されたものですから、さらに次ぎの視点を作って行く事も可能です。
 新しい視点を作る方法は、自分たちの考える共同の暮らしの全体像(世界)を全員で描き続け、語り続けるのです。話しあいだけでは不十分で、視覚化まで持って行く必要があります。

 最近、企業の生産現場や販売現場で「見える化運動」が盛んに行われています。これは従来文字で示されていた作業手順や作業基準を視覚でわかるように、イラストなどで表現する動きです。
 このようになってきたのは、文字や言葉はそれほど客観性のある伝達手段とは言えない事が解ってきたからです。文字や言葉では、全員に同じ内容が伝えられないのです。「綺麗に片付ける」と指示があれば、人は自分の認識データから「綺麗」を視覚化し、その視覚通りの作業をします。綺麗のデータは人それぞれですから、片付け方は十人十色となります。
 全員に同じ内容を伝えるためには、個人のデータで視覚化しないように、具体的な視覚情報で伝える必要があるのです。これは共通の視点を作る場合も同じで、共通の視覚情報を共有しないと共通の視点にはなりえません。

 私の一つの実験ですが、自給型コミュニティの生活全体図(自給自立を成立させるための要素をイラストと単語で表わした図)を作っています。これは白地図のようなもので、これをベースに全員でさらなる要素を描き込んでいくのです。こうすることで、共通の視覚像(視点)が記憶されて行きます。(また、この全体像を描いていく作業の中で、それぞれ自分は何ができるか、何を担当したらよいかが、自ずと解ってきます。誰が何を担当するかを協議することも、誰かが指図する必要もなくなります。)

 このようにして作られていく共通の視覚像(視点)こそが、共同の暮らしにおける思考、判断の基点となります。この新しい視点が確立、定着しない内は、言葉だけの議論は発展させない方がよいです。先にも言ったように、言葉の持つ概念は幅が広いですから、どの部分をクローズアップするかで、それぞれ異なった世界に入って行きます。
 まして、以前の個人の視点から発言、判断するとなると、共同の世界は壊れて行きます。結婚生活に入ってからも、独身時代の視点で思考、判断していると結婚生活が破綻するのと同じです。

 なお、新しく作り出した共通の「視点」はやがて共通の「意識」となり、「グループ意識」となって行くものです。その時、思考・判断の主語は「私」から「コミュニティ」になっています。新次元への飛躍です。

○共同の暮らしでの分業(分担)方法

 人間の生活は分業(分担)で成り立っており、これがうまく出来ないと大変暮らしにくいものになります。その分業(分担)ですが、大きく2つの方法があります。
 一つは、企業などでごく普通に行われている作業プロセスをカステラをカットするように分割し、それぞれ別の人が行う方式です。これは産業革命以後に盛んに行われるようになった分業方式で、文献的にはアダム・スミスが『国富論』の中で、その成果を記述しています。
 この「プロセス分業方式」(私の造語)の場合、前後のつながりが命ですから、全員が同じ基準で作業を行う必要があります。規格化、標準化はそのための一つの方法です。しかし、一回限りの作業や、その都度条件が異なる日常生活などでは、必ずしも効率の良い分業方式とは言えません。「指図」や「協議」が多くなり、感情的なトラブルも多くなります。

 もう一つの分業方法は、「おじいさんは山に柴刈りに行き、おばあさんは川に洗濯に行く」という「要素分業方式」(私の造語)です。
 この方式の分業は、関係者全員が全体像(全体がどのような要素の集積で成立しているのか)を理解し、そして自分の受け持てる要素を選択し、それについては始めから終わりまで(完結するところまで)やってしまうという方式です。
 柴刈りを選んだおじいさんは、柴を刈って帰ればよいのであって、どの場所でどのような方法で刈ろうとおじいさんの自由です。固有の自我のデータを使ってよいわけです。

 自我本意に生きながら、平和な共同生活をつくる方法というのは、後者の分業方式の中にあります。自我の固有の認識データは消去できないですから、異なったデータのままで成立する暮らし方を研究すべきなのですが、工業社会以後無視されたままになっています。
 オーケストラなどは、後者の分業方式として一つの参考になります。曲を音のレンジ(楽器)で分割し、各楽器は始めから終わりまで演奏します。プロセスの分割はしません。
 このような分業方式のメリットは、どこかのパートが途中から欠落しても、チェロ奏者が途中で演奏できなくなっても、全体が大きく壊れないことにあります。カステラを分割するような方式の分業は、どこかが欠落すると全体がなくなります。現代が非常にストレスの多い社会であるのは、そのような「プロセス分業方式」になっていることが大きな原因でしょう。

 なお、「要素分業」を行うために、先の項で説明したような全員で全体像を作り上げるという作業がまず必要です。これも視覚化できるところまで進めます。
 スタートは単純な全体像を描きます。これが重要です。一休宗純というお坊さんが「世の中は、食べて糞して寝て起きて、さてその後は死ぬばかりなり」という歌を詠んでいましたが、スタートはそのレベルの全体像で良いのです。この歌、単純ですが押さえるところはきちんと押さえています。死のことも入っています。複雑に考えていくと死のことなど欠落してしまって、お墓のことを考えない全体像が作られます。これは全体像ではないのですが、それさえもわからないということになります。単純な全体を描いて、それから順次細かな要素に入っていくというのがセオリーです。
 全員で描き込んで行く中で、自分の受け持つ部分が自然と分かって来て、議論しなくても役割は決まります。

 うまく説明できないのですが、頭の良い人が集まっていきなり要素を導きだして、それを集合させて全体を組み立てるとうまく行きません。一見全体のように見えますが、これは全体像ではありません。例えが良くないかもしれませんが、たくさんの名曲の部分を取り出し、つないでみても名曲にならないのと同じ原理です。この原理、説明するとややこしくなるだけなので、省略します。

・・・・内輪話ですみません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎年のネタを一つ。今年我が家にツバメが来ません。昨年まで来ていたのですが、駐車場に作っていた巣をネコに壊されてしまったのです。そこの巣は数年前にも壊されリフォームしてからもずっと空家だったところに昨年入居したばかりだったのです。いつもは2階の玄関先の巣に入居するのですが、三角関係のもつれから巣が変わった矢先の破壊でした。毎年聞こえる声も聞こえず、寂しくしています。迷信ではツバメが来なくなると不吉だということが言われていますので、本当はそちらの方が恐いのです。でもリアル「癒しの郷」にはツバメが来て、巣を作る場所を探していました。糞との格闘もこうなれば楽しみです。


**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  202号 2006. 5/5