**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   200号 2006.3/5

 今号は雑誌記事のことから入ります。先日『スターピープル』(06年春)という雑誌に目を通していましたら、「・・・政治家は2007年あたりに国の崩壊を考えているようですが・・・」という1行が目に入り、その言い方の軽さが妙に気になりました。これは木内鶴彦さん(彗星探索家で臨死体験のことを書かれている方)が、「臨死体験から見た違う現実」というテーマで書かれていた記事の一節です。

 メルマガの古い号で「平成」という文字の謎解きを紹介したことがありますが、もう一度取り上げておきます。「平成」は「平に成る」と解釈できます。何が平に成るのかというと、自我(頭)の築きあげたものが崩れる(振り出しに戻る)ということでしょう。それがいつなのかは「平」の文字の中に示されています。「平」は「一」「八」「十」に分解でき、「平成・一八(年)十(月)に成る」と示しているとも解釈できます。今年の10月あたりに何かの切っ掛けがあるのかもしれません。

 メルマガ『癒しの郷を創ろう』では、常々滑り込みセーフになると言ってきました。半分冗談のつもりですが、繰り返し言っていますから無意識下にそういう設定(イメージの焼付け)がされてしまって、現実にそうなるかもしれません。
 「癒しの郷」は昨年最初の土地を手に入れ、建設に入りつつあります。この進み具合から「平に成る」はいつかを逆読みできるかもしれません。

 もう一つ付け加えておきますが、これも以前紹介したことですが、モンロー研究所の手法によって体外離脱した人の未来報告で(ブルースモーエン『死後体験』)、2020年の風景の中にコミュニティ(共同体)で生活している人達がいるとありましたが、一見してコミュニティの生活とわかるということは、生活が確立した状態にあるということでしょう。そのような状況になるには、少なくとも10年ぐらいはかかるでしょうから、2010年ぐらいには建設に入っていなければなりません。そのような決断をさせるような出来事が、近々あるということでしょうか・・・。

 さて本題に入りますが、「共同の暮らしを作るために」というテーマで人間の違いを見ています。前号で同じ場所に立ち同じ方向を見ていても、人によって見えるもの(認識できるもの)が違うということ、また同じものが見えたとしても捉え方(理解の仕方)が違うということを、私の妻を引き合いに出して説明しました。
 今号ではまずその違いのでき方をもう少し詳しく見てみます。

○データが価値観を作り、価値観がデータを集める

 私たち(自我、パーソナリティ)は、休む事無く物事を選択し続けています。その選択は価値観によってなされています。
 問題は価値観なのですが、これはおどろくほど単純に、またいい加減に(このいい加減さに生まれたことの意味があるかもしれないのですが)、形成されて行きます。おおむね最初に出会ったもの、最初に良いと教えられた事が是(プラス価値)と設定されます。
 そしてその後似たようなものに出会うと、最初の設定と比較し(瞬時ですが)善し悪しを分けデータとして記憶されていきます。これは無意識の内にです。
 私のように親が自営業だと、よほどイヤな記憶がない限り自営業はプラス価値側に設定されます。妻の場合、サラリーマンという仕事がプラス側に設定されています。もうそれはあらゆることにおいてであって、家族の人数とか、結婚年齢とか、住宅の向きといったようなものまで、最初の体験が基準価値として設定されます。
 そしてそれが大変イヤなことであったなら、逆の方向に価値を設定します。例えば親が酒飲みでそのことでイヤな事ばかり体験したなら、酒を飲まないことに価値を設定します。しかしこれは深く考えれば分かることですが、酒という世界を出てはいないのです。酒というものを認めて(設定して)、それに触れない方向に進むというだけで、酒は飲んでも良し飲まなくても良しという、酒に執着しない価値設定は出来ないことになっています。そして、私たちはプラス価値を設定した方向に舵を切り、その方向の情報をより多く集め個有の体験をすることになっています。

 このような自我形成を考えると他者(自我レベルの他者)との関係は絶望的になってくるのですが、カルキ・ヴガヴァン(全人類の悟りを目標にインドに「ゴールデンエイジ・ムーブメント」という組織を作り活動している人)という人も、「人は皆コンピュータのようにプログラムされていて、それゆえに自分自身の自由意志など持っていないのが実情です。・・・そのプログラムは、生後6時間から5〜6歳までに作られる・・・あなたの人生はこのプログラムに従って流れているだけです。」(『ワンネス・オブ・ザ・アース』)と、明快に言い切っています。
 また「そのプログラムがあなたの本当の人生(魂の人生)を食い物にしています」とも言っています。

○いったい自我は何が目的なのか

 本来の自己が、今世で何かを実現(体験)したいと考えていても、自我は自分の正しさで勝手に突き進んで、自我満足の一生を終えてしまうことになっています。「だから覚醒しなければならない」というのが精神世界や宗教の説くところですが、なぜ魂は自我に翻弄されるような世界に生まれてくるのでしょう。覚醒が目的ならこの世に生まれて来る意味などありません。誰も覚醒できないのですから・・・。とにかくこのところをきちっと説明したものに出会ったことがありません。

 だれも覚醒できないことから考えれば、地球島流し説の方がはるかに説得力があります。これは宇宙の罪人たちが、刑として重力の強い地球に送られ、ここで肉体という思いウエアをまとって自我人生を送り続けているのだという説です。
 しかし私はそうは思っていません。自分では自覚できないように巧妙にプログラムされ、自動ロボットのような人生を送ってしまうということが、逆に魂の計画ではないかと思えるのです。自動ロボットに乗り込んでしまえば想定通りの人生が体験出来るわけです。

 下手に覚醒(自我放棄)されると、自我的特異な体験を増やすという目的が頓挫してしまいます(笑)。
 魂(本来の自己)にとって、自我に翻弄される人生体験はパック旅行と言えるかもしれません。自分で計画したなら絶対に行かないような所にも立ち寄ることになり、それはそれで一つの体験といえるでしょう。
 運良く覚醒(自我放棄)してくれたなら、そこから自由旅行に切り替わり、レベルの高い三次元旅行が出来るということでしょう。どちらに転んでも魂にとってマイナスにはならないのだと思います。
 さらに言えば、魂は降りるというカードを切ることも出来ます。自動ロボットのパック旅行があまりにひどいものなら、事故死、病死などによって肉体を降りるでしょう。そういう仕組みもあることが『火水伝文』(『日月神示』と同系の神示、非売品)に、「花と情の仕組み」という表現で説明されていました。

 自我を折伏できない(自我放棄に導けない)のは、魂の力不足とも言えますし、自我能力が低いとも言えます。まあ似たもの夫婦なのでしょう。(笑)
 ただ私は自我本意でもない、魂本意でもない第三の道があるように思っています。この話しは長くなりそうなので、次号に回したいと思いますが、自我の性質さえ押さえておけば、つまり、自我は他者が理解できない(認識データと価値観が皆違っている)、他人のプログラムに変更を加えることができない(自分のプログラムも変更できない)、二点を前提にしたシステムを組めば、それぞれが自我を生きていても平和な全体が作れることになります。次号ではその方法(といっても完全にマニュアル化できている訳ではありませんが)を紹介したいと思っています。

・・・・内輪話ですみません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎年のことですが、気がつけば三月。21世紀になってからは毎年ドッグイヤーのような過ぎ去り方です。私自身も実年齢よりも老けこんでいるのではないかと、日々心配している今日この頃です。メルマガを始めてから毎年年初には「今年こそリアル「癒しの郷」が手に入りますように」と書いてきたのですが、昨年念願のリアル「癒しの郷」に出会い、以降忙しい日々を送っています。まだ8ヶ月ほどしか経っていないのですが、もう何年もこういう生活をしていような錯覚を覚えます。写真などを紹介したいと思っているのですがなかなか編集に手が回りません。


**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  200号 2006. 3/5