**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   199号 2006.2/5

 前号から一ヶ月経ちましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私の方は月刊で多少ゆとりが出るのかと思っていたのですが、いまだにその実感がありません。やることが増える一方のようです。ともあれ、回数が減った分、密度を高くしたいと思っています。宜しくお願いいたします。

 『共同の暮らしを作るために』というテーマで意識の部分を考えてみたいと思います。

1 それぞれ見えるみもの、聞こえるものが違う。

 つい先日のことです。図書館で借りて来た『世界住居誌』という本を見ていたとき、トゥルッリの家(イタリア南部の石で造られたキノコのような家。最近その住居群が世界遺産に登録された)があったので、妻に「この家は○○○(岡山にある農業テーマパーク)にあっただろう」と言ったのですが、妻は全く記憶にないと言います。そこには2〜3回行っているのです。しかもその家は街のように何軒も軒を連ねて建てられていてショップになっていました。そこで買い物もしています。それでも妻には家が見えていないのです。私たち夫婦の会話でこんな事は日常茶飯事です。

 次にこれは「読売新聞」(06年1月30日)のコラムですが、北連一さんと言う方が「楽才ゼロ67歳の発見」という題でコラムを書いていましたので、一部を紹介します。
 「・・・西村雄一著『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』を読んでいて、私には音楽の素養はもとより、才能、資質が全くないことを思い知らされた。・・・黒澤明と対になっている早坂文雄は『酔いどれ天使』『野良犬』『羅生門』『生きる』『七人の侍』の音楽を担当した作曲家である。私はこれらの作品を総べて見ている。『七人の侍』その後3回見ている。当然のことながら、登場人物たちの仕草や話ぶりまで克明に覚えている。それにも関わらず、音楽も早坂文雄という名前も頭の隅にさえひっかかっていない。そういえば、私と同世代の若者たちが熱狂したプレスリーやビートルズの音楽も私には騒音でしかなかった。・・・67歳にもなって自分に「耳が無い」ことに気付くとはうかつな話しだが・・・」

 私たちが五感を通して何かを知った(認識した)ということは、自分の中にあるそれと同じデータと外の世界の何かが重なったということです。それ以外に認識ということは考えられません。銀行が印鑑照合するような作業を私たちは頭の中で絶えまなく行っているのです。データとしてないものは見ても見えない、聞いても聞こえないのです。西洋の諺にあるように、どこに出かけようが、「ロバが馬になって帰って来る訳では無い」と言えます。

 ではなぜ私にはトゥルッリの家を認識できるデータがあり、妻には無いのかということですが、これは個人の本質部分の興味から来ていると思われます。私の家も妻の家も建築業とは無縁ですし、身近な人にそういう関係者もいません。育った環境を見るデータはないはずなのです。それが私の方にだけあるということは、やはり何かにつけ共鳴するもの(絵や写真など)に出合ったら形を記憶していったのでしょう。

 しかし認識データの多くは育った環境によってプリントされます。次ぎにそのことを考えてみます。

2 同じものが見えても捉え方が違う。

 私の悪いクセと思っているのですが、何を見ても聞いても生産や販売の事を考えてしまいます。妻の方は何を見ても聞いても消費の側から考えます。当初これには驚きました。この年にもなって子供のように好きか嫌いかだけで判断する人がいるのかと(笑)。
 これは明らかに育った環境によるものです。私は自営業の家系に育ったものですから、モノを作ったり売ったりのことは日常会話の中で耳にしてきました。変わったものを見るとどのようにして作ったのだろうか?・・・と意識が働きます。ほとんど無意識にです。
 一方、妻の育った環境は両親ともサラリーマンでしたから、生産や販売とは無縁です。食卓で生産コストの話しなど一度も聞いた事がないでしょう。消費のみを考える環境にいたわけです。

 このような物事の捉え方のデータは、一度子供のときプリントされてしまうと、以後、生活環境が変わっても修正は出来ません。新しいデータを追加していくことはできますが、それは行動にはつながりません。
 新しいデータが行動につながらない理由はいくつか考えられます。一つは人間にも動物に見られるような刷り込み現象があって、白紙状態のところに入って来たデータは抵抗要素がないために非常に強くプリントされるようです。例えば人の名前なども、最初に間違って記憶すると簡単には修正できません。何年か後に会った時でも間違った古い方のデータが出ます。
 次ぎに古いデータの否定は自分の過去を否定することになり、これは堪え難いことですから、無意識のうちに古いデータを擁護するのかもしれません。

 このように物事の捉え方、見る方向性といったものは、子供のときに決定されるといってよいでしょう。昔から「三つ子の魂百まで」と言われています。

 少し横に反れますが、喜怒哀楽の感情対象も子供のときプリントされます。一般に世の親は子供が遊び回ると怒ります。少なくとも誉めてくれないでしょう。これは遊ぶことは悪いことだとプリントされたからです。一定の行動、一定の形に対し、一定の感情を発するというのもデータとしてのプリントです。
 認知症(痴呆)になると感情も消えて行きますが、これは感情も認識データとして記憶されていたものだという証拠です。そもそもパーソナリティ(自我人格)は認識データの総体に過ぎません。データが消えると人格も消滅します。この話は改めて詳しく触れたいと思います。

 余談ですが怒りは相手に向けるべきではなく、自分に向けるべきものです。宇宙の現象に善悪はありません。動きがあるだけです。すべて創造主のエネルギーの流れです。流れの一方を善と決めたから、もう一方の流れが悪になっただけのことです。神のエネルギーに怒りを向けても仕方のないことです。ある流れを悪と決めた自分の認識データを修正するのが筋です。
 怒りは破壊的な思いですから、怒りを発していると量子力学的原理でまず自分の体が壊れます。

 さらに余談ですが、認識データを修正する方法として、タデウス・ゴラス『なまけ者のさとり方』では、怒りの対象に出会ったら「それが美しく見えるようになるまで、せめて無関心でいられるようになるまで、そこから意識をそらしてはなりません」とあります。しかし人間は、一点に10分間意識を集中させることも難しいです。

 余談に入っていくとキリがなくなりますから、今号のまとめをしておきますが、人は同じ位置から同じ方向を見たとしても、それぞれ全く異なる現実を体験しています。同じ世界を見よといっても認識データが違うのですから無理なのです。またお互いを理解しようとしても、これもまた無理な話しです。『ピアスの悪魔の辞典』では「理解とは新しい誤解である」と説明しています。

 このことは共同の暮らし(夫婦も共同の暮らしの一つ)を作っていくうえでの重要な前提です。一緒にいても見ている世界が違うというのは楽しいことです。自分では見ることの出来ない世界の話しが聞けるのだし、また自分がどういう世界を見ているのかも相対的に知ることが出来ます。
 ここでストップしますが、この話はまだ続きます。一ヶ月に一回となりましたが、宜しくお願いいたします。

・・・・内輪話ですみません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回の話しは要するに自分の興味ある事しか関心が持てない、という話しです。私たち夫婦の結婚当初からの会話でした。一緒に車に乗っていても、仁慶は材木屋とか刃物研ぎ、税務署、法務局とかいう看板は見えても、ケーキ屋とか食べ物屋の看板は見えないのです。見事に夫婦で分業しているというか、2人でやっと一人分の仕事をこなしているような感じです。日常生活に支障はありませんが、道路の説明をする時チンプンカンプンになる時があります。同じものが見えていないのですから。


**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  199号 2006. 2/5