**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**   29号 2001.5/25

「癒しの郷」メルマガの初期の頃(5号のコメント)、「工芸村」のプランを作ったことを少し書いたのですが、これに対する質問を頂きましたので、ここで少し触れておきます。

 私の子供時代(1960年前後)は、まだ工業化(分業化)がそれ程進んでいなかったし、地方の農村に育ったこともあって、又、父親が設備工事業という手作業的な仕事をしていたこともあり、子供時代は、主に自給自足的な体験や知識を得たと思います。

 そして、大学時代になってからは、一気に分業生活的な知識、体験をするようになりました。(準備人その2は、その1より10年遅れて世に出ていますから、子供の時から分業的な生活をしています。考え方の違いがわかって非常に参考になっています)

 大学時代(大阪)は、経営学部で学んでいました。深い意味はありません。自営業者の多い環境に育ったものですから、単に馴染みのありそうな所を選んだだけのことです。

 しかし、当時は学園紛争の盛んな時代で、授業もまともに無く、紛争の嫌いな私は、夜間の経理学校に行き、昼間は機械メーカーの経理アルバイトをしていました。
 それがそのまま仕事になったのですが、やがて計算などとても一生の仕事とは思えなくなり、方向転換を決めました。

 「癒しの郷」シリーズで、時々数字の話しになったりするのは、この時代の影響です。経理技術は今も自分自身の税務申告の為に使っており、何ごともバランスシートの上に乗せて見る癖がついてしまいました。
 「癒しの郷」もバランスシートに乗せながら考えていますから、大きな間違いは無いでしょうが、計算を超えたものが出にくいので、皆様のアイデアを加えながら、ビジョンを描いてください。

 方向転換を決めた先は、工芸の世界でした。陶芸か木芸かで悩みましたが、まず実家から通える学校ということもあって、岡山の職業訓練校(木材工芸科)に1年行く事にしました。
 表面的に見れば方向転換ですが、精神的には私の元々の世界に帰ったと思っています。

 この時に生まれたのが「工芸村」の構想です。なぜ「工芸村」なのかと言いますと、個人技のような木芸の世界でも、一人では大きい作品が作れないのです。陶芸などでも登り窯を使おうとすると、1週間ぐらい火を絶やすことが出来ないので、やはり一人では不可能なのです。

 ここに補助者が必要になってくるのですが、駆け出しの作家に弟子など取れませんから、異業種であっても同じ立場の人が集まって助け合うしかないと思ったのです。
 なお、集まる理由はもう一つありました。工芸家というのは、世間との相性が良く無いからです。これは、世間時間で仕事が出来ないこと(するとなったら昼夜を問わず、日曜も関係なく)、世俗への関心が薄いことによります。
 従って、同じ生き方の人だけで町内(自治会の組、班)を作り、独自の町内ルールを作れば世間に煩わされることもなく、また一般の人に迷惑をかけることもなく、仕事が出来ると思った訳です。

 「工芸村」の構想は、変な知識のない20歳代のプランであった為に、今考えても本質をついていると思っています。
 その後の知識なのですが、考え方、生活スタイルの似た人達が集まってグループ(社会単位)を作るというのは、生物学で言う所の「住み分け」であって、不必要なトラブルを避けるための基本的な在り方だということです。

 また、お互いが助け合う(共同=合同、分担=相互)というのも、人間が社会を作る根本目的であって、この共同の面でも、似たような人が集まっている方が好都合です。
 共通なる部分が多いほど、共同出来る範囲が広くなります。

「工芸村」の構想が、何時の頃からか「癒しの郷」に発展していったのです。

 「工芸村」の構想は出来たものの、現実には日々の生活があり、構想をまとめていく時間も必要であり、取り合えずビジネス界に戻ることにしました。

 経済新聞を見ていたら、ホームセンター事業を計画している会社(大阪)があったので(この当時、日本にホームセンターは無かった)、私の出来ることとやりたいことを書いて送ったら、すぐ来いという返事が来ました。

 ゼロ状態の業界でしたから、商品開発、店鋪開発、販売促進まで何でもやりました。
 この時は、会社の学費負担で夜間部のデザイン学校(工業デザイン科)に行かせてもらいました。私個人は工芸家の道を進んでいたのです。そして、「工芸村」のシステムを組み立てていました。

 工芸村は、有志で作っていく計画だったのですが、早々に土地問題(日本の土地制度、土地習慣)で行き詰まってしまいました。

 ちょうどその頃、岡山県が吉備高原都市という計画都市を作っていましたので、その一画に「工芸村」を作るというプランにして県庁に送りました。
 この案には、岡山県も興味を示し、何回かの話し合いが行われたのですが(その都度大阪から行っていた)、結果としては実現しませんでした。

 今から思うと、方法が甘かったと言えます。県庁(行政機関)では無く、議会(県議会議員)の方に提案していたらどうであったのか。また、県ではなく、全国の市町村に提案していたらどうであったのか。

 20代の私には、そこまでの方法は考えられませんでした。


・・・・内輪話しですみません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何号も準備人その1のプロフィールに費やしてすみません。生立ちから現在に至まで、お話することで人生観や思想が判っていただけて、「癒しの郷」の発想の根本が理解いただけると思っています。また、得手不得手が判ると、その面を補って下さるような助言が頂けると思っています。次回は数少ない作品ですが、ホームページに載せますので、ご覧ください。今、昔の写真などをスキャナで取り込んでいるところですが、画像の処理が出来ず表示に時間がかかるような気がしています。


**コミュニティ「癒しの郷」を創ろう**  29号 2001. 5/25